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昔のこけし・コケシ

こけし,コケシ,昔の小さな民芸こけし,アンティーク

高さ
幅  16cm
奥行き
   \2,500   


こけしって何ですか?

東北の温泉地で江戸末期から大正初期にかけて湯治客に土産物として売られた轆轤(ろくろ)引きの木製の人形玩具が本来のこけしです。

こけしはどんな人が作ったのですか?

温泉地あるいはその近くに住んで轆轤(ろくろ)で木地製品(お椀やお盆)を作っていた人たちです。

木地屋とか木地師、轆轤師と呼ばれていました。

こけしってどういう意味ですか?

コケシには場所によっていろいろな呼び方がありました。木で作った人形からきた木偶(でく)系(きでこ、でころこ、でくのぼう)、這い這い人形からきた這子(ほうこ)系(きぼこ、こげほうこ)、芥子人形からきた芥子(けし)系(こげす、けしにんぎょう)などその産地によって違っていました。

こけしという統一した呼び方にしたのは愛好家達で昭和15年頃のことです。

こけしは、木で作った、あるいは小さな芥子人形の意味です。

こけしはいろいろな産地の中でどこで最初に作られたのですか?

はっきり分かってはいません。たぶん蔵王東麓の遠刈田(とおがった)(宮城県)が一番古く文化文政(一八〇四〜一八三〇)から作っていたと思われます。遠刈田とは別に鳴子(宮城県)、土湯(福島県)でも天保年間(一八三〇〜一八四四)から作り始めていたようです。

こけしは産地によって形が違うのですか?

轆轤で作り、頭と胴だけで手も足もない木の人形と言う点では皆同じです。でも産地によって、形態・描彩にそれぞれ特色があります。それを十、あるいは十一に分類しています。一般的には土湯、弥治郎、遠刈田、蔵王高湯、肘折、作並、鳴子、木地山、南部、津軽の十系統に分類します。人によっては作並から山形を独立させて十一系統にしています。

コケシを作った木地師とはどんな人たちですか?

こけしは江戸末期に生まれましたが、木地師の歴史はずっと古くまで遡ります。日本には、応神天皇以後に渡来した秦一族が養蚕、機織りなどの技術者とともに木地師を連れてきたと言われています。

木地師は琵琶湖湖東に定着し、法隆寺の百万塔(無垢浄光陀羅尼を納める木製三重小塔、七七〇年)制作などで活躍しました。滋賀県神崎郡永源寺町小椋谷の君ヶ畑や蛭谷が今でも木地屋の根元と言われます。ここには木地師の祖神と言われる惟喬(これたか)親王をまつった大皇器地祖神社があります。その後、良材を求めて日本各地の山々へ移住しながら神器、仏器、塗下などを制作しました。木地師はこの大皇器地祖神社の氏子で、小椋(おぐら)姓を名乗る者が多くいます。各地の木地師から氏子料を徴収するための氏子狩(うじこがり)は明治まで続いていました。

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