リサイクルハウス真遊里のトップへ戻る

リサイクルメニュー(3)に戻る

螺鈿細工(らでんさいく)の茶卓

らでんのローテーブル

螺鈿の座卓,らでんの座卓,,アンティークなラデンの茶卓,螺鈿の茶卓

高さ    21cm  
幅     60cm 
奥行き   45cm
   \ 8,000

螺鈿(らでん)とは
螺鈿青貝は,奈良・平安時代にシルクロードを経て日本に伝来し,盛行螺鈿の太刀,梨子地蒔絵螺鈿などが有名です。
 鮑貝,夜光貝,蝶貝等を天然砥石で両面より薄く研磨した薄貝を用いて紋様や字体を巧みな表現により,心をこめて丁寧に,作り上げたものです。
 光の角度により神秘的で華麗な輝きを持ち,優美に作りあげました。
 
製品になれば,すばらしい色とつやがみられる貝細工ですが,それには大変な人の手がかかっています。まず,貝の選別に始まり,それから10〜20cmの鮑を大きさに応じて1〜3枚に切断します。それを0.3mm前後の薄さにとぐわけですが,一度にとぐと焼けるため,水をかけながら慎重に丹念に,何回も繰返し研磨機にかけて作られています。                              

螺鈿の歴史
明治時代に「鮑貝摺」が将来有望であると聞いて泉北群高石村大字高石南の村田政五郎は,綿密に調査した上で東成群天王寺村,畑伊三郎方の貝摺職人,佐伯兼松を招き,自宅に小さな工場を作りました。時に明治29年7月。これが高石の「鮑貝摺」の始まりです。
 依頼,事業は順調に伸び技術を習得した者は次々に独立開業。当初,政五郎が睨んだとおり前途洋々に見えました。 ところが明治38年,高石村に日露戦争の俘虜収容所が開設されると,南海鉄道浜寺駅の乗降客がそれまでの七倍にも達するほど多数の見物人が追いかけ,商店が軒を連ねるという「収容所景気」が突発。
 これに人手を奪われた貝摺業者は,軒並み休業に追い込まれました。その前途が危ぶまれましたが,婦女子が細々と継続しなんとか命脈を保ったのです。
翌39年,俘虜が帰還すると,高石村はもとの落ち着きを取り戻すとともに人手が戻り,業界は次第に発展。
 大正4年には,高石町の全農家600戸,人口では3,100人の内310人が貝摺に従事し,5万円もの年間総売り上げを記録するほどになりました。

素晴しい螺鈿の座卓貝の象嵌



探し物はこちらからどうぞ
まず最初に検索ボタンを押してください。
検索画面になります。
探したい品目を入れて検索してくださいね

カスタム検索

リサイクルハウス真遊里のトップへ戻る

リサイクルメニュー(3)に戻る