吉徳大公の兜・かぶと
よしとくたいこうのかぶとにんぎょう |
五月人形,兜,かぶと,カブト,吉徳大公,節句人形
高さ 57cm |
幅 66cm |
奥行き 41cm |
\15,000 |
吉徳大公のものです。状態良好です。 |
端午の節句は、奈良時代から行われている古い行事です。
端午というのは、五月初めの午(うま)の日という意味です。それがいつのまにか五月五日に固定されしまいました。
奈良・平安時代の端午は、災厄を避けるための行事が行われる重要な日でした。宮廷ではこの日、軒に菖蒲やよもぎを挿し、家臣の人々は菖蒲を冠に飾ったり、菖蒲のくすだまを柱に下げたりしました。また災いをもたらす悪鬼を退治する意味で、騎射(うまゆみ)、競馬(くらべうま)などの勇壮な催しも行われました。
端午には民間でも軒に菖蒲を挿し、また、子供たちが小弓を引いたり、印地(いんじ)と呼ばれた石合戦を盛んに行いました。この印地は江戸の初めまで続きましたが、危険なため禁止されて、後には菖蒲きりというチャンバラごっこから、菖蒲打ちといって菖蒲の束で地面をたたき、音の大きさを競う遊びへと変化しました。
鎌倉時代には、宮廷の端午の行事はしだいに衰えますが、代って武家の間から、菖蒲と尚武とをかけて、この日を大切にする気風が生れ、また男の子に
兜や太刀を贈ったりしました。民間でもこの頃から、菖蒲湯、菖蒲酒、菖蒲枕など、菖蒲に関する風習が盛んとなりました。江戸時代、武家社会に入ると、
端午は幕府の重要な日となり、大名や旗本は染帷子(かたびら)の式服で江戸城に出仕し、将軍にお祝を述べました。また、将軍に世継ぎが生れると、城中にたくさんの幟や作り物の槍、薙刀
兜などを立てて盛大にこれを祝いました。民間でも、こうした武士の気風をまねて、
初節句には厚紙でこしらえた大きな作り物の兜などを屋外に飾りました。こうして
端午の節句は、武家のみならず民間まで広がって、男の子の誕生を祝う日となったのです。
作り物の鎧兜は、やがて屋内に引き入れられ、精巧なミニチュアの内飾りに変化していきました。これが現在に受け継がれる
五月人形となります。
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